現在約370万人が暮らす街 横浜。

横浜の中心部である関内・関外エリアは、昔は小さな湾のような遠浅の入海でした。当時はその周辺に六つの小さな村が点在し、人々が海で魚を取ったり、わずかな平地で田を耕したりして生計を立てていました。

この入海の入り口に、現在の元町辺りから入海を囲うように小さな半島のような浜(砂州)が横に長く突き出していました。これが、「横浜」という地名の由来なのです。

吉田新田開墾前図(開発前図) 吉田興産株式会社所蔵

今から約350年ほど前、吉田勘兵衛という江戸の材木・石材商が、船で江戸に材木を運ぶ途中、この遠浅の入海を見つけました。

吉田勘兵衛は、この土地を埋め立てて新田を作ろうと考え、江戸幕府に埋め立て工事を願い出て許可を得ると、その後11年にわたる過酷な灌漑(埋め立て)事業に着手しました。

そして現在の大岡川と中村川、JR根岸線が走っている辺りに囲まれた釣鐘状のエリアを灌漑、埋め立てて完成したのが「横浜の礎」である吉田新田です。

吉田新田開墾図(開発図)
吉田興産株式会社所蔵

 

その後、吉田新田の沖合に残っていた入江が埋め立てられて横浜新田(現在の横浜中華街)、太田屋新田が整備されました。太田屋新田を開発している1854年にペリーの黒船が来航し、1859年に横浜が開港されました。

入海の8割の面積を灌漑整備した吉田新田とそれに続く、新田開発による後背地の整備があってはじめて、ここ横浜の地に海外への窓を開くことができたと言えるのです。