読者の皆様は関内・関外(かんないかんがい)ってお聞きになった事 がありますか? 関内駅や関内ホールは知ってますよ、なんて声が聞こえてきそうですね。関内の関は関門、いわゆる関所の関なのです。ということは、関内は関門の内側? 関外は関門の外側・・・・? 今回は横浜在住の方も意外と知らない、関内・関外地区の歴史をご紹介してまいりましょう。

ペリー提督の黒船来航により開国を迫られた際に、幕府により開港場とし て選ばれた横浜村。1859年の開港の後、そこには多くの外国人が入り込み、外国人居留地としても栄えていきました。いっぽう開港場と東海道を結ぶ為に開かれた横浜道ですが、横浜道の終着点にあたる野毛や吉田町あたりは横浜道から開港場への結節点として交易の中心地となり、たくさ んの物や商人、荷を運ぶ労働者で賑わい、宿屋や飲食店などが軒を連ねておおいに栄えました。一方人の往来が激しくなるとともに、外国人と武士のトラ ブルなどの危険性も高まっていきました。そのためそれらのトラブルを避 けるために関門を設け、武士や町人の出入りを 取り締まり治安を守ったのです。ちょうど現在の関内駅の近く、伊勢佐木町と馬車道の間にあって高速道路を跨 いでいる「吉田橋」(ア)、 そのたもとに関門が設置されました。

(ア)吉田橋

関門の海側(馬車道側)が【関内】、陸側(伊勢佐木町側)が【関外】と呼ばれた のです 。現在、吉田橋の下には首都高速道路神奈川1号横羽線(イ)が通っていますが、

(イ)

この道路はかつては掘割(運河) でした。関門を境に海側の関内と陸側の関外に、掘割でセパレートされていたのですね。今でもJR京浜東北線関内駅の地下には、当時の掘割護岸の石積みが残っているようです。 明治4年に関門は廃止されましたが、その名前が現在まで残っているのですね。

関内・関外地区の歴史を知るには、吉田新田の歴史についても触れておか なければなりません。現在、神奈川県庁や市役所、そして横浜スタジアム や多くの企業オフィスがある地区【関内】と、伊勢佐木町からお三の宮周辺までの地区【関外】のあたりは、かつては遠浅の入海で、野毛浦(戸部村の集落のひとつ)、太田村、蒔田村、堀之内村、中村などの半農半漁の村落が分布していました(1)。

吉田新田開発前図
吉田興産株式会社所蔵

現在の元町(元村)あたりから横に長く伸 びる砂州(横浜の由来)に囲 まれたこの入海を江戸の材木商であった吉田勘兵衛が江戸時代の新田開発として干拓し、田や畑を造ったのです(2)。

吉田新田開発図
吉田興産株式会社所蔵

大雨により干拓地の堤防が流 されたり、甚大な被害を受けながらも難工事を乗り越え、工事を始めてから十一年の歳月を費やし1667年に新田が完成し「吉田新田」と呼ば れるようになりました。 今年2017年は吉田新田完成350周年を迎えます。この吉田新田開発による入海の陸地化があっ たから、のちの横浜村の開港場建設もスムースに進めることが出来ました。吉田新田の開発がなければ横浜の開港もなかったと言えるでしょう。 はじめに入海の最も大きな面積を埋め立てた吉田新田の干 拓により、入海の8割ほどが 陸地となったのち、横浜新田 (現在の中華街あたり)や太田屋新田が開発されて19世紀の半ば頃には現在の【横浜関内・関外地区】全体の陸地化が完成し、併せて治水・灌漑及び運搬交通網として大岡川、中村川や新田内の運河が整備されました。これらの土地が近代横浜の基盤となったのですね(3)。

吉田興産株式会社所蔵