昭和2年3月、文明開化の地 横浜の中区真砂町・・・現在の関内駅前セルテのあたり、で勝烈庵は創業しました。
創業者(初代庵主)は、慶應大学を卒業して総合商社に就職。まだ海外に渡航する人も多くはなかった時代に石油の仕事でヨーロッパへ行ったり、その後北欧の外交官にもなりました。しかし日本に帰ってから会社を辞めて、石油の小売りなどいろいろ事業に取り組んだのですがことごとく失敗してしまいます。
そんな時に東京で食事をしたおり、たまたま入ったトンカツ屋さんでのこと。高温で揚がっていて火が通っているけれど、外側が硬くなってしまっていて、こんなに美味しいのに勿体無いなと感じたのだそうです。
海外経験が長かった初代庵主は、色々な食べ物を知っていた、いわば食通でした。もっと美味しいものができたら・・・と自分で考え工夫を重ねて作ったものを友人に食べさせてみたら、あまりにも完成度の高いものができたので、これで何かお店をやってみようと・・・。カツレツというのはフランス語、イタリア語のコットレット・・・包んで揚げる、といった意味でしょうか。


こうしていわゆる勝烈庵スタイルのものを確立させました。もともと調理人ではなかったので発想が柔軟だったのでしょうか。もっと美味しいものを、と食通として楽しみながらやったことがうまくいった要因かもしれません。これにはキャベツの千切りが合うね、とかこの味噌が合うねとか。最初のお店の看板には(趣味料理の店)と書いてありました。

店名「勝烈庵」の由来
コットレット(カツレツ)で、商売をするからには烈しく勝たなければいけない・・・という創業者の強い思い。また、庵(あん)というのは、お坊さんの(なんとか庵)というのといっしょで、引退した人が最後に入るところ。当時大学を卒業して飲食業の地位も高くはなかった時代に、人生の最後にやるからには絶対に勝つのだ!という創業者の心がありました。こうして「勝烈庵」が生まれました。お店を始めようとすると、自分で調理することが多いのですが、初代庵主は調理人ではなかったので、自らは調理せずに、ビジネスマンとしての知識の全てを経営につぎ込んだようです。当時としては珍しいマインドでした。また「勝烈庵」という店名は初代庵主が昭和2年に商標登録しています。当時は、今でこそ一般的になった「商標登録」なんて誰もしていなかったような時代です。こんなところにも先見のビジネスマインドが伺われますね。
その後、創業店舗は第二次世界大戦の前後の接収や横浜大空襲でやむなく閉店。空襲の前、関内のあたりにはたくさんの金融機関があって、重要文書が保管されていました。人がいる場所は空襲で狙われて文書も焼けてしまうという恐れから、この辺りは会社やお店もみな強制疎開になったのだそうです。
戦後の復興が落ち着いた昭和31年に初代庵主の意志を継いだ2代目庵主が、すべてにおいて創業以来の製法を守り、横浜駅名品街(現在の横浜駅西口・ジョイナスのあたり)で再開し、その後横浜市中区常盤町(現在の本店の裏手にある「焼き鳥 半どん」の場所)に馬車道総本店を開店しました。以来変わらぬ横浜の味として横浜市民をはじめとする多くの皆様に親しまれています。