横浜の総鎮守、伊勢山皇大神宮の宮司、池田正宏様から伊勢山皇大神宮と横浜の歴史、神社と町のかかわり、などについてお話を伺いました。(インタビュー日 2016年8月10日)

明治3年に伊勢山皇大神宮を創建しましょうとなった時に、今まではキリスト教に対する防波堤のような、日本の精神、文化を守るといったことが前面に出ていたように思います。しかし本を読んだり自分なりに考えてみますと、その事はそれほど強くなかったのではないかと思います。むしろ日本の歴史の中でこんなに急激に大都市に発展した所(横浜)はないという事が背景にありますね。

浜っ子3日

「浜っ子3日」と言いますが、なぜ3日なのか?今までは単に横浜の人はよその人を受け入れやすいんだと思っていましたが、もう少し違う意味合いがあるようです。伊勢山が明治3年にできて、その時はまだ仮殿だったのですが、当時のお金で5万両という膨大な費用を町の人たちが集めたといいます。明治3年といえば新貨幣はできていないし、廃藩置県の前です。そんな時によくこんな金額を集めたもんだと思いますね。5万両といえば、1両が10万とすれば50億ですよ!明治の一番初め、江戸の一番最後の貨幣価値なのでどのくらいか正確にはわかりませんが、それにしても数十億円。そのお金で伊勢山の遷座祭が大々的に3日間かけて行われたというんですね。明治3年に仮殿を建てたらすぐに本殿を建て始め、出来た時の祭りが前夜祭(宵宮祭)、本祭り、後宮のお祭りで、山車からなにから何十台と出て、いま厳島神社がある羽衣町から馬車道本町通りにかけて桟敷が出来たというんです。そして町の人達が3日3晩踊りあかしたらしい。

祭りと住民の連帯意識

山車が15台に、祇園のような背の高い造りもの、また各町競って異なる形式のものが25、6台も出たというすごいお祭りだったと言われています。。それが3日間かかっている。「浜っ子3日」と言いますが、この祭りまでは「浜っ子」という呼び名はなかったのではないかと思いますよ。横浜はもともとあちこちから集まってきた人達ばかりだった。山梨から来た人、静岡から来た人などおられた。横浜村に、吉田村に住んでいた人はいたけれど、「新生の横浜の住民」という意識は、きっとそれまではなかったのではないかと。鳥居民さん(とりいたみ:日本の歴史作家)がまとめられた「富貴楼のお倉」という本にも出ているけれど 伊勢山さんのお祭りが終わったら、みんな腑抜けみたいになっちゃった(笑)、みんなそこに精力をつぎ込んで。「横浜の人達」が初めて一緒にやった、力を合わせてやった。それ以前には皆が力を合わせて一緒にやった、そういう祭りはおそらく横浜には無かったのではないかと思います。

それまで「浜っ子」という、「横浜の住人」、という意識は無かったと思いますね。羽衣町から元町、石川町などの町がありますが、それぞれにお社があるのでそれ以前は祭りは別々でしたし、その個別の祭りに新しい人達が加われたかどうかもわからないですね。伊勢山の時はみんなが加われたんですね。官公庁、銀行までが休みだったようですよ、戦前までね。そこで初めて「横浜市民」という意識ができた。そこが一番大きかったのではないでしょうか。

急激に住民が増えた横浜と伊勢山皇大神宮

ある意味ではキリスト教に似たところがあるんですよ。西部を開拓して町の人が何を最初にするかといえば、まず教会を建てますね。似たところがあって面白いと思うんです。伊勢山皇大神宮、というとてつもない名前を、よく明治の初めのころにつけられたなと思います。きちんと国に申請して建立された、創建された神社でも皇大神宮なんて名前はなかなかもらえない。 それだけ当時の横浜の人たちの熱意、伊勢山を作るということにかける情熱がそこで思い図れると思うんです。国から当時のお金で3000両は出たそうですが、途中から5万両は町の人達が集めたといいます。こんなところにも横浜市民が結束し、自分達が連帯感を初めてもったということが伺えますよね。

伊勢山皇大神宮のご祭神

ご祭神はお伊勢さまといっしょですね。何か限られた特別なことでお願いをするというかたちではありません。どちらかといえば総合的な、たとえば家運隆昌ですね。自分の一家とか一社とか。家が栄える家運隆昌、今でいえば社運隆昌。安産などでもお参りにお見えになられますが、安産ならどことか、病気ならどことかありますが、伊勢山は主としては全体的な、一家が繁栄、一社が繁栄するとか、横浜が繁栄するとか、全体で総論でお願いするということです。良いことがありますようにとか・・・。本来はそういうものです。

神は人が敬うことで威を増す、といいますが、参る人の気持ちがそのまま反映するわけです。 歴史に、背景に根差して、伊勢山は横浜の発展に密接につながっているわけですね。

伊勢山皇大神宮と町との関わり

この伊勢山や野毛の周辺は、今でいう官公庁がたくさんありました。今でも教育会館、青少年センター、能楽堂、音楽堂、図書館、婦人会館などがありますし、神奈川奉行所もあった。その中でも当時は神様の土地ということで一番良い場所を探したんだろうと思うんです。当時はおそらくこのあたりが横浜の中心だった。

当時の歓楽街というか、商業施設もあった。お倉というおかみが東京からこちらへ来る、明治の元勲が、東京、品川からチョキで遊びに来ていた。伊藤博文なんかも金沢あたりに家を持っている。憲法の草案をあそこで書いたとか・・・・。東京でいうと丸の内みたいな。同じ商業地でも、飲んだり食べたり、この場所に直接生活と結びついていたのが野毛だったのではないでしょうか。私の勘ぐりですけど、明治の元勲なんかがしょっちゅうこちらに来て、密談してたりいろいろしていた(笑)。今は料亭政治はなくなってしまいましたけれどね。鉄道も桜木町まで一番早くできた。チョキよりこちらのほうが便利だ、早いぞ!とね。

日本の多くの町が門前町か、城下町として発展しましたけれど、横浜みたいにまず町ができて、あとからあわてて(笑)お宮を造ったというところがとても面白いと思いますね。それで先ほども西部劇で、皆で集まって教会を造った話をしたんです。

ご祭神については、当時はお伊勢さんでなければならなかったんです。明治維新のすぐ後、幕末には、ええじゃないかええじゃないかでお伊勢参りが・・・町に他の神社があるからそれを大きくしてここの鎮守様にというわけにはいかない。お伊勢さんでなきゃいけなかったんですね。当時の官僚の気持ちも横浜の人々の気持ちもお伊勢さんでなきゃいけなかった。時代時代によって、人の心を纏めるご祭神は違うんです。鎌倉をまとめる時には八幡様だった。頼朝といえどもお伊勢さんは格が上過ぎてお祭りできなかった。単なる武士が自分でお宮を作れるようなご祭神ではなかったんです。逆に、ほかのご祭神ではまとまらなかった。もっと同じことをやった方は聖武天皇がいらっしゃる。東大寺を建て全国に国分寺、国分尼寺を建てた。そこで初めてみんな同じ日本人だという意識ができたと思うんです。その真似をしたのが頼朝。自分の御家人に、全部八幡様を自分の赴任地にもっていって、全国に3万社(笑)。それ(人々の心を纏める)を明治の時にやったのがここなんです。明治の時にお伊勢さんをお祀りできたのが、とてもありがたかった。

伊勢山皇大神宮と野毛

野毛には子の大神(ねのおおかみ)というお社がありました。杵築宮というのは出雲大社のことで、子の大神(ねのおおかみ)は大国主命で、伊勢山と野毛、双方の神様がぴったり合っているんです。今から思うと何百年も前に野毛の町は伊勢山の氏子みたいになる運命にあったのかなと。ご祭神が違っていたらどうしようもないんですが、ご祭神が同じ。こちらの本殿が天津神系統の最高神、子の大神は大黒様、大国主の尊は国津神系統の最高神、その点では偏っていないんですね。明治維新の時の勢いで、お伊勢さん、お伊勢さまでやっているのかと思うと、出雲さまもお祀りしている。バランス感覚、当時誰がどういう風に考えたかわかりませんが、辻褄が合っていると思うんです。それが今の野毛の町とのかかわりあいになっているんですよ、すんなりとね。野毛にとっては横浜総鎮守としての伊勢山さんがあって、野毛の氏神様としての子の大神さんがいるって感じですかね。8月のお祭りではここへ野毛の町内のお神輿が勢ぞろいしますよ。

横浜発祥の事物と、伊勢山皇大神宮

資料で調べたわけではありませんが、横浜が発祥といわれているアイスクリームは、伊勢山の参道で初めて売られたという話がありますね。本当かどうかわかりませんが、そういう伝承がありますよ。

下岡蓮杖さん、商業写真を最初に民間に広げた方です。その方の慰霊祭、写真組合の人がやっている顕彰会というんですか、その祭りには毎年伊勢山から行っています。馬車道に碑がありますよ。そのお祭りを今でもさせてもらっていますね。

これからの横浜

横浜全体では、近年、開港150年祭がありましたね。ああいったお祭りにも、神田とか浅草のような熱気があればもっと良いと思いますね。来年は吉田新田350年があったりします。横浜全体の祭りをきっかけにした盛り上げを期待したいですね。そして、明治のころのように当時の横浜の意識を統一したような、「新たな横浜の大祭」に結びついていってくれると素晴らしいと思います。

伊勢山皇大神宮創建150年へ向けて

【Mon横濱】 伊勢山皇大神宮は平成32年に創建150年を迎えられます。平成26年秋に、伊勢神宮から第62回式年遷宮で建て替えられた古社殿を一宇そのまま譲与されておられ、平成32年までに伊勢山皇大神宮のご本殿として今の御殿を建て替えられます。引き続き、池田宮司からお話をお聞きしました。

今どき一棟で頂けるなんてことは普通ありません。みんな部材でどこかの柱が何本とか、それで自分の所の修理をするものです。「一棟下さい」と言ったら、はじめは断られました。ちなみに名古屋の熱田神宮は、一度戦災で焼けてしまったのですが、昭和28年のご遷宮の時のご正殿をいただき、そっくりそのまま熱田神宮の本殿になっているんですね。 戦後の大変な時に。ですから名古屋の人々は熱田神宮のご正殿はお伊勢さんのご正殿だと、とても誇りに思っている。そこで横浜市民にも誇りをくださいとお願いしたところ、ようやく考えてくださった。   次のお正月にご挨拶に行ったら、横浜の人口は何人ですかと。これは頂けたと(笑)。名古屋より横浜の人口が100万人多いところがみそ、横浜の大きさがありがたかったですね。

ご本殿はいただいてきたまま茅葺でやりたいと思っています。お宮の役員さんなども、費用がかかるので、銅板葺きにしたらどうだという人もいるのですが、それでは部材をもらってきたところと同じになってしまうと思うのです。明治の時に皇大神宮という名前をもらってきたのだから、本物の皇大神宮からご社殿をそのまま移すというところに意味があると思っています。ですからどうしてもやりたいと思っている。でも伊勢神宮さんに言われたんです、茅葺は一番大変ですよと。このくらい(両腕で抱えられるいっぱいの)茅を切ってきて、使えるのは2~3本ですよと(笑)。でもやりたい、それで初めて皇大神宮に・・・・・

きちっと申請して当時認められている、名前にふさわしいご社殿をもらえたんです。これは同じに建てるしかないでしょう。お伊勢さんのそのままのご社殿がある、向こうに行かなくても お参りは勿論今までもできましたが、今度は同じ建物でお参りできるのですから。

堀立柱の唯一神明造、遠くから見ると小さいようですが、柱が大きくて総檜造りの立派なものです。