馬車道の繁栄

1859年(安政6年)に、幕府が当時100戸程度の寒村であった横浜村に開港場を開き、ほぼ同じ時期に東海道と 開港場を結ぶ重要なバイパスとして古道「横浜道」が完成しました。その横浜道の起終点となる吉田橋に関門が設置さ れ、関門の内側(海側)が関内、外側は関外と呼ばれるようになったというお話はすでにご紹介しましたね。この吉田橋の関門から開港場に至る道が馬車道です。開港当時、馬車道には多くの日本人と 外国人が行き交っていました。そこは外国と日本の商取引を行う商社や金融の業務街、経済的な中心地であり、貿易商 や書画骨董などを取り扱う商店が立ち並ぶ国際街として賑わっていました。多くの外国人達がこの道を馬車で往来しており当時の人々にはその姿がとても珍しく、この道が「馬車道」と呼ばれるようになったようです。関内には商家に加えて 芝居小屋や寄席なども建てられておおいに繁栄しました。しかし開港から7年後の1866年(慶応2年)の10月 に旧末広町の豚肉料理屋から出火した【豚 屋火事】により千数百戸の家屋が焼け、多くの外国人商館が消失。港崎遊郭 (みよぎゆうかく)もこの大火で壊滅しま した。

関内地区の再整備

関内地区の3分の2が焼けてしまったと いうこの大火を機に、町並みが再編・整 備されることに。港崎遊郭の跡地は外国 人と日本人がともに使える公園(現在の 横浜公園)になりました。また幅60 フィート(約18メートル)の道路3本 が計画的に整備され、そのうちの 一つ、海岸通から吉田橋までの道路が現 在の馬車道です。また日本人居住地と外国人居留地を改善整備した後、火災の延焼を防ぐために双方の地区の間に 港側から公園まで120フィートの幅をとり通されたのが現在の日本大通 りです。通りの両側には街路樹が植えられ、ゆったりした幅の歩道も整備 されました。この周辺は建築物の屋根や壁の部材にも火災に備えた決 め事があったようです。

馬車道は流行の最先端

 

関門内では馬車道を経て、本町通り、弁天通りなどの海岸線に沿った短冊 状の街区が徐々に整備されていきました。本町を中心として北仲通、南仲 通には会社や銀行が集中していましたが、もう1本となりの弁天通りには 陶器、漆器などの日本製品を外国人向けに売る店が多く、洋服やワイシャ ツなどの舶来高級品を売る店も多く並びました。当時の横浜は東京よりも 流行を先取りしていて東京からはお金を持った人達が買物 に来るので、うなぎや肉料理など高価な料理屋も繁盛していたそうです。 現在の馬車道は道路の名前でもあり、また商店街の名称でもあるのです。

馬車道には、横浜の【日本初】がたくさん!

明治初年には横浜から東京行きの日本初の乗合馬車がこのあ たりから出ていたようです。2頭立て6人乗りで東京まで約 4時間ほどかかりました。 開港場に直結していた馬車道は外国文化と接する玄関口で、横浜には「日 本初」といわれるものが数多くあります。

アイスクリーム

町田房蔵が、馬車道の氷水屋で「アイスクリン」と いう名前で販売したのが日本初とされています。当 時はとても高価で日本の人々には手が出なかったよ うですが・・・。日本アイスクリーム協会が毎年5 月9日を「アイスクリームの日」として、馬車道商 店街が街を訪れた人達に馬車道あいすを配っていま す。

近代街路樹

1867年(慶応3年)に馬車道の各商店が、通りに 沿って柳や松を植えたことが近代街路樹の先駆けとさ れているようです。横浜市制90周年並びに開港12 0周年記念にあわせて中区尾上町5丁目に「近代街路 樹発祥の地」の碑が建てられました。

ガス灯

明治3年に高島嘉右衛門が中区花咲町にガス会社を設立。明 治5年に神奈川県庁付近と大江橋から、馬車道、本町通りま でのおよそ600メートルの街路に、ガス街灯十数基を点灯 しました。これを記念して1986年(昭和61年)9月に 馬車道商店街協同組合が中区住吉町に「日本で最初のガス灯 の碑」を建てました。

日刊新聞

明治3年に中区本町通りで日本初の日本語日刊新聞「横浜毎 日新聞」が創刊されました。