ポンパドウルの創業者三藤喜一が昭和堂のパンを発展させるにあたり、地元小学校の給食パンの製造を委託されるか否かが大きなポイントでした。1955年前後には、川崎市の小学校の給食パンを製造し、昭和堂のパンの「甘くておいしいパン」の人気も衰えを知りませんでした。1948年の創業以来、川崎や蒲田に直営店を、また周辺の商店街にも販路を拡大して順調に業績を拡大。1960年代後半には神奈川製パン企業のトップに立ち、全国でも8位にランクされました。しかしながら三藤喜一は、1940年代後半以降次々に誕生した山崎製パン、第一屋製パンやフジパンなどの大手資本の進出に強い危機感を抱いていました。

大手対大手の潰し合いとは一線を画し、誰も追いつけない独自の企業への脱皮・・・。長い煩悶の末、全国の中堅製パン企業で作った親睦団体「あけび会」での活動をきっかけに、規模は小さくても大手に伍して活躍している海外のパン屋のあり方を参考に、三藤喜一は当時のパン業界で主流だった大量生産型のベーカリーとは一線を画し、 多品種少量生産のオーブンフレッシュベーカリーを開くことを決心し、それを実現する「ポンパドウル構想」を打ちたてました。

「あけび会」のメンバーとヨーロッパを視察し、ヨーロッパで最も食されているフランスパン、パイのようにサクサクとした食感と甘さが特徴のデニッシュペストリーをいかにして日本のお客様に食べていただくか、その技術をどのようにして日本に持ち込めばいいか、を見極めるために奔走しました。こうして1969年横浜元町にポンパドウル1号店が誕生したのです。

ポンパドウルのコンセプト

・最高峰の製パン技術で、本当に美味しいパンを作る

・いつ行っても常に焼きたてのパンを提供する

・これまでの少品種大量生産から脱却し多品種少量生産でお客様の細かいニーズに応える

・パン屋とは思えない贅沢な店づくり

・最高のデザインを採用したパッケージ

以上「幸せを運ぶ赤い袋」三藤達男 神奈川新聞社刊より抜粋

 

ポンパドウルの創業に際しては、大量生産ではなく個々のお客様のニーズを大切にし、パン職人の手に技術を残しさらに技術を向上させるために、ヨーロッパから技術指導者を招聘しました。フランスからフランスパンの専門家パトリス・ジョリー、デンマークからはデニッシュペストリーの職人ウォルター・ヤン・ペーターセンを迎えいれました。

パンの試作品作りには最も力を入れました。まずフランスパンを焼く窯を輸入して小麦粉の選定からはじめ、試行錯誤の末にオリジナルにミックスした粉にたどり着きました。この時に創業者から試作品作りを任されたのは、昭和堂のパン職人さんでした。ポンパドウルのオープンが1969年の冬と決まった半年前の春にようやく粉が決まり、それからもパンの香りや味を決定づけるイーストの配合量や発酵時間など試行錯誤を重ねてオープンまで3週間のタイミングで全ての条件が整いました。

パンの美味しさを求めて

焼きたてのパンほど美味しいものはない。当時の製パン企業は工場での大量生産でパンを焼いていましたが、ポンパドウルでは店舗と工房を併設する形態で、店の工房で粉から作り上げる「オンプレミス」という方法を選択、しかも1日に複数回パンを焼いて、お客様にフレッシュな焼きたてのパンだけをお届けできるようにしたのです。

しかし美味しいパンを提供するために、決して効率的とはいえない方法をとることによってパンの製造コストは上がってしまいます。そこでポンパドウルではパンの「セルフ販売方式」を編み出しました。今ではどこのパン屋さんでも当たり前のようになりましたが、お客様が欲しい商品を自由に選びトレーに乗せてお買い物をするスタイルもポンパドウルから始まったのですね。